
零(れい)さんという人がいて、私にたくさんのことを教えてくれた。
直接会ったことは一度もない。顔も本名も、どこに住んでいるのかさえ詳しくは知らない。
連絡先もわからない。
それでも零さんは、間違いなく私の大切な「なり語」の先生だった。
零さんと知り合ったのは、とあるスマートフォン向けアプリゲームのチャット機能がついたチャンネルの中だった。
というか、私たちが言葉を交わしたのは後にも先にも、その四角い液晶画面のログの上だけだ。
当時、零さんが思いつきのように立ち上げていたのだろう、ごく小さな個人的なグループに、私は入った。
グループといっても最初はただ零さんが気ままに過ごすための個人的な居場所に過ぎなかった。零さんがリーダー、そしてもう一人先に加入していたMさんという人がいて、私は三番目のメンバーだった。
零さんはいつも独特だった。チャットに流れてくる言葉の多くは、語尾に「なり」がついていた。
そして皆それが面白いから笑いながら零さんのなり語を真似していた。
ある時、チャット画面で「零さんはどうしていつも『なり』というなり?」と何気なく尋ねてみたことがある。
当時の私は、アニメのコロ助の真似事か何かだろうくらいにしか思っていなかった。しかし、コロ助は「ナリ」であって「なり」ではないのだ。それが零さんとの違いだったし、それが不思議だった。
すぐにポコンと返ってきた零さんの答えはこうだった。
「なりは敬語なり」
意外な答えだった。
しかし、画面越しに返ってくる零さんのテキストの向こう側には、どこか奇妙な真剣さがあった。
「文字だけだし」
零さんはそう打ち込んできた。
人は画面の向こうにいる相手を見失って、言葉に角を立てて生きすぎてしまう。
だから語尾をまあるく包み込んで、自分と相手の間、そして画面の冷たい光の間に柔らかなクッションを挟むのだと、零さんは私に教えてくれたんだと、私はそう解釈した。
零さんの「なり語」に、こんな深い意味があったなんて私は想像していなかった。
そして心が温かくなった。
それからというもの、私たちはチャットのログを奇妙な「なり語」で埋め尽くしていった。
「今日ドロップ少ないなり」
「ボス強すぎなり」
「ミッション終わらないなり」
ぎこちない二文字を付け足すだけで、ゲーム内の些細な苛立ちも、現実世界のささやかな悲しみや退屈も、まるでおどけた遊戯のように軽やかになって、淡い光の粒のように宙へと消えていった。
零さんが作ったその小さなグループは、少しずつ居心地の良さに惹かれた人が集まり、今では二十人を超える大所帯になっている。雑談が飛び交い、攻略情報が共有され、グループはかつてよりずっと賑やかになった。
けれど、初代リーダーだった零さんは、もうだいぶ前にログインしなくなってしまった。
ステータス欄の「最終ログイン」の日数は増え続け、約300日以上前になっている。
何が理由なのかは今でも分からない。例のごとくまた端末が壊れたのか、ゲームに飽きてアンインストールしたのか、それとも新しい何かに夢中になったのか。
零さんはもともと、先のことをあまり深く考えず、その瞬間の思いつきや気分でいろいろとやってしまうような人だった。だからきっと、消えてしまったことにも大層な深い理由なんてないのかもしれない。
唐突に始めて、ふっと飽きて、どこかへ行ってしまう。振り返ってみれば、そういう身軽で掴みどころのないところは、少し私自身にも似ているような気がしている。
大人になってから知った。古文の「なり」は断定や存在を表す助動詞で、決して零さんの言うような都合のいい敬語などではない。
けれど、おそらく、ほぼ確実に、零さんにとっては敬語だったのだ。
というよりも、「なり」をつけないと、直接的な投げっぱなしの言葉になってしまい、それが他の人に対して強い言葉や冷たい言葉に聞こえて受け取られてしまうことを零さんは避けたかったのだ。
具体的に何と言ったかは覚えていないが、零さんがそのような内容のことを言っていたことがあるように私は記憶している。
皆が笑っていた「零さんのなり語」は零さんのやさしい心によって生まれた発明だったのだ。
画面の向こうの誰かを傷つけないように言葉を選びあぐねる夜や、見知らぬ他人の冷たい言葉に触れて心がささくれ立つとき、ふと暗い部屋の液晶の奥で、零さんの打ったメッセージが蘇る。
名前も知らない相手に対して、そっと頭を下げるような、あの不器用で優しい音律。
零さんの優しい気持ちを思い出す。
通知の途絶えたアプリの片隅、もう動かない零さんのアカウントを眺めながら、どうしても素直になれない祈りや伝えきれなかった感謝を抱えるとき、私は今でも心の中で小さく呟いてみるのだ。
明日もきっと、いい日になるなり、と。
そして、いつか、また、零さんがそのゲームにログインしてくれるかもしれないと思っている。
サービス終了まで、零さんが一度でもログインしてくれて、また少しでも言葉を交わせたらそれでいいと私は思っている。
それまで、待つなり。







