
たまごかけごはん。
その七文字を頭に浮かべた瞬間から、冷蔵庫へ向かう足取りは決まっていた。深夜二時、静まり返った台所の蛍光灯がチカチカと鈍い音を立てて灯る。
炊飯器の保温ボタンを押し、蓋を開ける。立ち上る白い湯気とともに、米の甘い香りが狭い空間を満たした。茶碗に山盛りに装った炊き立ての白米。その中央に、しゃもじの先で小さなくぼみを作る。
これが僕にとっての、ささやかで絶対的な儀式の始まりだった。
冷蔵庫のドアポケットから、一番新鮮そうな卵をひとつ取り出す。冷たい殻の感触を確かめながら、平らなテーブルの端で軽くコンと叩いた。パリッと繊細な亀裂が入り、親指で押し広げると、ぷるんとした透明な白身をまとった濃い黄身が、熱々の米のくぼみへと滑り落ちる。
醤油差しを傾け、円を描くように二回半。黒い線が黄金の頂を横切り、白米の隙間へと染み込んでいく。
箸を立て、黄身の中央を遠慮なく突いた。とろりと濃厚な黄色が溢れ出し、白身の冷たさと混ざり合いながら、湯気立つ米粒の一粒一粒を包み込んでいく。
完璧にかき混ぜすぎないのが僕の流儀だ。黄色が濃い部分、白身のつるりとした舌触りが残る部分、そして醤油が直接染みた米の香ばしさ。その不均一なグラデーションこそが、たまごかけごはんの醍醐味だった。
茶碗を持ち上げ、口いっぱいに掻き込む。
舌の上で広がる濃厚なコクと、出汁醤油の塩気、そして噛むほどに広がる米の甘み。複雑な味付けなど何一つない。手の込んだ料理でもない。
けれど、胃の腑に落ちていくその温かさは、一日中張り詰めていた神経をほどき、乾いた心の一番深いところを満たしていく。
「生きてるな」
思わず口から漏れた独り言が、誰もいない夜の台所にぽつんと響いた。
どれだけ理不尽な日に打ちのめされても、茶碗一杯のこの黄金色があれば、人はまた明日を迎えられる。
最後の一粒まで箸で綺麗にすくい取り、僕は小さく息を吐いた。








